「子どもを2人以上持ちたいという極めて健全な状況」=「子どもを2人以上持ちたくない人は健全ではない状況」ととった人、つまり僕の思考の流れ。

立論

  1. 柳沢氏は子どもを何人以上持ちたいと思うかについての考えが健全であるか健全でないかについて言及している。
  2. 人が健全な状況とする事象を想定するとき、健全でない状況とする事象も想定している。
  3. 「子どもを2人以上持ちたい人」でなければすべて「子どもを2人以上持ちたくない人」である。
  4. よって柳沢氏は「子どもを2人以上持ちたくない人」の少なくとも一部は健全ではない状況と想定している。

反論

当然、2のところに反論される。「健全な状況となる事象を想定しているときに、健全でない状況の事象を想定しているとは限らない。」

通常、何かを健全だと言うときは「本来あるべき姿」を思い浮かべていることが多いと思います。ここで言う「あるべき」という思い自体が既にある特定の思想における価値観であることは感覚的に分かると思います。とするとこれは絶対評価であって、その思い描いた「健全」ではない状態のことなんか頭の片隅にもありません。単に「健全」と思いたいことが何であるかの表明なだけです。健全とは機能が上手く動いている状況ですから、色々な切り口で色々な健全さを示すことが出来ます。

じゃあ、その思い描いた「健全」に合わないものが「不健全」かと言うと、必ずしもそう思っているわけではないことが多いと思います。そのことを考えていなかっただけに過ぎないわけです。ただ、健全という言葉のニュアンスが、相対的に優れていることを示すように思えるということが対義語としての不健全という言葉を呼んでいるようです。逆に我々が不健全と言う言葉を使うとき、その反対に健全を見ているか。こちらは健全がないと成り立たない言葉ですから、健全を意識しています。

というわけで、不健全⇒健全という発想は不健全という評価をしている時点で健全を思い描いてないといけませんから必然的に成り立ちます。ところが、健全⇒不健全はそこでの健全の定義をよっぽど厳密にしないと何を持って不健全とするかというところまでたどり着きません。すなわち必ずしも成り立たない場合があると考えることもできます。

この語に限らず、見た目上は対応しているように見えても必ずしも双方向で関係が等しいとは限らない言葉はいくつもあります。そういう言葉は否定形が付いている方は必ず元の言葉と対比されますから、否定形の方を使ってしまった時点で元の言葉を規定しているのです。そのことによって元の言葉が本来のニュアンスを失わないように議論していきたいものですね。

しかし、柳沢氏が絶対評価で健全な状況としたかはわからない。僕自身は相対評価でしか健全な状況と表現しない。柳沢氏も同様の可能性はある。*1

柳沢氏に聞いてみないとわからないこと

  • 「健全って何ですか?」
  • 「そうですね。子どもを2人以上持ちたいというのは健全な状況ですよね。でも、子どもを持ちたくないという人も健全な状況とお考えですよね。」*2

本当のところ腹立たしいのは

あるグループに対して肯定的な表現をしたときそれに属さないグループがどう受け取るかということは、政治に限らず会社・学校の中でも配慮しなければならない。たとえばあるグループが表彰を受けたとき、それに属さないグループからの妬みが発生するなんてのはしょっちゅうだ。

結婚したい・子供を持ちたいというニーズに応えなければならないという意思を表現するために、それらの人を健全だとわざわざ肯定的に表現する必要などないじゃないか。その程度のところで相手に言質を取られるようなことを言って何の意味がある。

他方、ご当人の若い人たちというのは、結婚をしたい、それから、子どもを二人以上持ちたいという極めて健全な状況にいるわけですね。だから、本当に、そういう日本の若者の健全な、なんというか、希望というものに我々がフィットした政策を出していくということが非常に大事だというふうに思っているところです。具体的な事について、いろいろまた考えていかなければいけない。基本的枠組みとしては、そのようなことです。

*1:ちなみにid:NOV1975さんの表現であれば柳沢氏がある事象を不健全という評価をした結果において「子どもを2人以上持ちたい」という事象を健全と評価した可能性も残っている。もしそうならば不健全という評価を「「子どもを2人以上持ちたくない」というグループの中にしていることになる。

*2:「子どもを産む産まない、結婚するしない、こういうものは個々人の自由意思で決まるという前提のもとで社会が成り立っている」という発言は健全かどうかとは全く関係ない。健全でなくても自由意思で決まるという議論は成り立つ。