「いじめる方が悪い」とすると「いじめを見過ごしている自分も悪い」となって自分が許せないんでしょ。

いじめがあった時「いじめる方が悪い」と考える子どもが中学、高校で半数にも満たないことが、民間団体の調査で分かった。また、いじめを受けた際に相談できる相手を聞くと「教師」はわずか19%で、「いない」と答えた子どもは2割を超えた。文部科学省の統計報告がいじめ自殺をゼロとしてきた裏で、標的の子が罪の意識の希薄な子どもに追いつめられた上、周囲の大人が十分対処できていない様子が浮かび上がった。

それによると、「いじめる方が悪いと思うか」と聞かれ、「はい」と答えた小学生は6割を超えた。しかし、中学、高校生は4割台だった。「いじめられても仕方のない人はいるか」に「いいえ」と答えたのは、小学生ではかろうじて半数を超えたが、中学生では4割を切った。

一方、「いじめはなくせるか」との問いに「はい」と答えた比率は、学年が上になるほど少なくなる。「いじめを相談できる相手」は、「友だち」(56%)が多く、親は39%にとどまった(複数回答)。

また、「周囲でいじめやそれに類する行為が今までにあった」と考える児童生徒は全体の82%に達し、いじめがまん延している実態がうかがえる。

8割が今までにいじめがあったと認識してる。そのうち解決していない数だけ「いじめを解決できなかった子供」が存在する。高学年になるにつれて「いじめられる方が悪い」寄りになるのは、「いじめる方が悪い」ってしたときに「解決できなかった自分」について自己正当化をしようとしてる心の動きがあるんじゃないか。もしそうならばそういう心の動きをもっと早い段階でどうにかしないといけないのでは。

子供たちだってそれぞれで、いじめを超える正義を発揮できる子もいれば1対1あるいは1対多で相手に向き合うことのできない子だっている。そういう差のある中で子供たちが何をしたのかについて結果に関わらず大人たちは認めてあげる必要があるんじゃないか。その場で止めようとした子には止めようとした行為を、「自分には止められないから止めてほしい」と訴えられたら訴えてくれたことを認めてあげる。何もしない子供に対してですら「あなたにいろいろな思いがあって何もできないことはわかってるけど、もし起こっていることに対してそれは悪いと思っていていやな気持ちになっているならそれは正しい」とメッセージを送ってあげることが必要だと思う。

そのあと大人たちが手を貸したり貸さなかったりで最終的にいじめが解決する場合も解決しない場合もある。解決しないことのほうが多いだろう。そういうときに大人たちが自己正当化せずに「それを解決できなかったことは結果として悪いしその要因に自分もある」と認められるかどうかが、いじめる方が悪いと子供たちに思ってもらえるための境界線なんじゃないか。

大人も子供も「いじめ行為」と「いじめを解決できない自分」を同化してしまって、それをまとめて正当化しようとしてる。だったら程度の差こそあれ「現状では両方とも悪い」と認識を変えなきゃいけないのはまず大人たちだろ。