客も企業も従業員もそろって顧客対応の一般的正答探し。そんなものは絶対不可能なのに。

しかし、重要なことは、マニュアルそのものにあるのではなく、マニュアルに依存していれば何とかなるであろう、という安易な意識にあるわけです。
そうした安易な気持ちさえなければ、チェーン店で大変な思いをする外国人客はいないし、また、自分の気持ちをわかってくれないと思ってしまう子どももいないでしょう。

その店員や母親は自分の果たすべき役割を全うするために最低限、マニュアル的な発言をすればいいや、と思っている、ということ。

それは「あなたが果たせる責任はこの答えの範囲の中にしかありません」とする力が働き続けているから。その力の主は客か客の意志に敏感になった企業の管理層か。育児雑誌の例は社会全体に子供はこうあるべきという要求か要求の存在を感じさせる何かだろう。

例えば、イギリスをはじめ欧米の店の場合は店員と客の間では、そうした機械的な会話は行われないし、ときには、雑談や冗談を交わすほどです。

こんなのは別に欧米の例を引き出さなくても日本でも古い商店街なら見かける光景だと思うが、それは客と店員の間に「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」という一般的正答がなく客と店員の間だけの正しさで通じるからだろう。


ファーストフードの調理みたいに完成型が一律になる部分のマニュアルは構わない。だけど、客ひとりひとりに差異があるところを一般化してマニュアルにしようというのは土台無理な話だという前提を客も企業も認識していない。

客は客で顧客対応というのはこういうものだろうというものを自分に対するものではなく一般に対するものにしてそれを唯一の正答としようとするし、企業は客の行動を一般化してそれを唯一の正答としようとする。それが従業員をマニュアル依存にさせる力の正体。*1

僕がクレームを言った側の経験談で嫌いな類は、それを「企業のため」「あたりまえの対応」とか一般的な正義として言っている例。満足するサービスが人それぞれ違うなら不満足なサービスも人それぞれだということに想像力が働いていない。あくまで自分と企業の間のことを、一般的なものに還元しようとすることにいやらしさを感じる。

だから、↓は客の立場にも言える。客だからという役割を超えたもの。サービスは客という立場だから当たり前に受けられるべきものではなくて、顧客対応は自分と企業の間だけに限定したコミュニケーションであることを認識して、社会的人間としてサービスを提供してくれる側の気持ちをどれだけ察することができてそれにどういう対価を払うかということ。一般的な正しさではなく私と企業の間の中で正しさについて合意しましょうという姿勢がどれだけとれるか。第三者の正義に威を借りて企業に対応を迫ることではないだろう。

まず問い直さなければならないことは、店員だからとか、親だから、といった自分の果たすべき役割の上でどれだけ自分がなしえているか、ではなく、役割を超えた、社会的人間として、同じ人間である客や子どもの気持ちをどれだけ察することができたか、そしてそれに対応できたか、といったことなのです。

*1:この他にも社会全体いろんなところにそういう力が存在しているとは思う。