1日遅れだけど折角だから例の戦争に対するスタンスとか。

今年で61年、61歳の人が当時の記憶があるわけないから、戦争を体験した人というのは本当に減ってきているんだな。

祖父は当時、軍の整備士だったらしく、赤紙とか特攻隊とか空襲の話をしてくれた。そうやって経験者として話をしてくれる人がいる家もだいぶ減っているのだろう。

日本のために戦ったのは、亡くなった軍人だけではなく空襲で亡くなった民間人だってそうだし生き抜いた人たちだってそう。靖国の話で「日本のために戦った人を」といわれて違和感があるのはそういう人たちのことが忘れられているように感じるかもしれない。

自分自身についていえば、日本人であるからどうこうなんていう意識は祖父の戦争話で湧いたわけでもなく、そういう話を聞いていた20年以上前ですら遠い昔の話・過去の話としてしか聞いてない。戦争の酷さはそんな過去の話でなくその時点で起きてる他所の国の話を聞いたほうがよっぽどリアルだ。

日本は過去こんな悪いことをしましたと言われても実際一次的に自分は何もしてないし、日本のために戦った人がいたと言われてもそれ以前の選択肢に問題があったんじゃねーのと思い、どちらも他人事の感。

30年もすれば過去を記憶している人はほとんどいなくなる。その時でも8月15日が儀式として存在するならば、それは虚構になっていると思う。英雄も悲劇も語る人のポジションでストーリーが作られるだけ。どちらも所詮は伝聞、気味悪さを感じる世界。そういう状況が起こりえるのは日本だけに限らない。

結局偉い人がカードとして使っているだけ。それが今より酷くなるだけ。そんなものにいつまで付き合おうか。

デニム
「そのとき、僕は気づきました。本当の敵は他にいるってことを。
「父祖の代から続くウォルスタとガルガスタンの争いなんて本当はないんですよ。
「いつの時代も、枢機卿や公爵のような権力を求める人々が、民族紛争を利用していただけなんです。
「憎むべき相手はガルガスタン人という民族ではなく、それを利用する一部の権力者たちなんです。