今年も減ったか、不登校。

2004年度に年間30日以上欠席し「不登校」とされた小中学生は前年度から約3000人減少し、約12万3000人となったことが10日、文部科学省の学校基本調査速報で分かった。児童生徒全体に占める割合も0・01ポイント減り、1・14%だった。

ちょうど1年前の今日、同じように不登校児が減ったよって記事をみて、自分自身の経験から「学校にいくことが目的のカウンセリングになってなければいいね」って話をつらつらと別のところで書いたのを思い出した。

最近の学校の状態を知るわけでもない自分は、詳しいことを判断して言えるような状態でないことは自覚してるけど、今年も自分の経験からくる妄言を書いておく。

子供たちは周囲から学校にいくことがあたり前だと思われている。しかし、一部の子供たちは内心ですごい葛藤を抱えている。親・教師が登校することがあたり前に正しいということと、自分自身が感じずにいられないただ登校することに対する無意味さとの間に。

生活の半分を占める学校へいくという行為がひたすらに無意味に感じられたとき、自分自身が何のために生活しているのかわからなくなる。それでも親・教師はただ登校することがあたり前だということを前提にしか話をしてくれないし、自分の感じる違和感にも答えてくれない。ついでにいえば、僕の場合は教師と共に同級生も含まれた。

違和感に答えてもらえないのは当然で、その違和感を明確に表現できるだけの言葉を子供たちは持ち合わせていないからだ。*1

自分自身が感じる違和感はたかだか10年程度しか生きていないにしても、それまでの中で感じたことのない自分自身の思いに対する強い正当性の意識がそこにあり、それとは逆に自分を保護してくれる親・教師との意識の間がかけ離れていることに対してひどい動揺を覚える。その動揺の中でようやく自分自身の正当性を強く信じて不登校を選択する。

だから、彼らに対する人たちには、彼らが言葉を持ち合わせないことを理解してやってほしい。そして彼らに言葉を使う機会を与えてあげてほしい。

僕は中学校の担任にその機会を与えてもらった。毎日のようにしつこいくらいに家にきてたけど、そこで何かを言うわけでもなく僕のペースでいることを許容してくれた。その中で子供の戯れ言にすぎないことでも聞いてくれる環境があった。結果、中学校に再び登校することはなかったけれど、通信制高校を卒業した後、経済的な面も含めて親から自立して生きている。

逆に弟の担任は弟に関知しなかった。親は僕にもそうだったが日々の生活に関わること以上の話はしなかった。彼は言葉を使う機会を失った。結果、20歳を過ぎても未だに職につくことなく実家にいる。

だから、何も答えなくていいから、ただ彼らがようやく絞り出した声を承認してくれるだけでいい。正しいとか間違っているとか言わなくていい。彼らが一生懸命考えた結果を話してくれているのだ。わざわざ自分自身を貶めるような選択はしない。最悪なのは弟のように無視されることだ。

学校にいくことなんかゴールにしなくていい。彼らが自分自身で先を決められるように導いてあげれば、後は彼らで育って行く。10代にもなればそのぐらいの力は充分にある。だから、僕はこの「不登校が減りました」という数字だけを見せられると、実際の彼らには何が起こったのかが不安になる。彼らは自分自身の違和感に結論を出して学校に戻ることができたのだろうか。

*1:もし、言葉を持ち合わせている子供なら不登校などせず学校を論破するだろう。