「傷ついた」という状態がどういうことかを内面的に理解することが僕にできるだろうか

数年前から「傷ついた」という表現に対してなんとなしに感じていた違和感が、ここ数日で自分の頭の中で言語化されるようになったのでそれを書いてみる。そうはいっても筋道をたてて考えたものではなく、頭に浮かんだ言葉をそのまま記しているだけなので、これに対して人からツッコミを入れられてもなんと反応しようやら、という状態ではある。

「傷ついた」という表現が内面からみてどういう状態かが、僕にはまったく想像できないことに気がついた。自分自身が「傷ついた」状態になったときにそれがどういう状態なのかが想像つかない。

外面からみる、つまり他者の様子を見て、「傷ついている」という状態がどのように見えるかは、視覚などでとらえられるものだからよくわかる。だけど、その状態が内面でどう動いているかを考えたとき、僕にはまったく想像ができない。

この違和感を最初に感じたのは、つきあっていた女性に「わたしはあのとき傷ついたの」と言われたときだった。状況を書くのは避ける。というより、そのときの違和感のほうが残っていて詳細に記憶していない。

その違和感は「彼女のその発言から彼女の状態をまったく図れなかったことに対する動揺」だったと思っている。

「私は怒っている」と言われれば、僕も怒りを覚えたことはあるからその状態は想像できる。「私は悲しい」と言われれば、僕も悲しさを覚えたことがあるからその状態も想像できる。ところが「傷ついた」という状態がどういう状態なのか、そのときから今に至るまでまったく想像できない。

それがどういうことになるのか深い部分ではわからない。ただ、当分の間は「私は傷ついた」と言われても僕にはその状態がどういう状態なのか理解する能力がないことだけは確かなのだ。